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『弟』兄中編(下)

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「燐音くん、スマホ鳴ってるっすよ」 「あァ?どうせ早く帰って来いって連絡だろ。ほっとけ」 「僕としては早く帰ってほしいんすけどね」 「うるせぇぞニキ」 「いやここ僕の家っすからね!?もう……。今日は親がいるんすから大人しくしててくださいっす」  夜の八時。我が物顔でニキのベッドに寝転がる燐音が未だ鳴り続けるスマホを邪魔そうに放り投げる。すると、それは見事に弧を描いてニキの頭へとクリーンヒットした。 「あだっ!!何するんか!何があったか知らないっすけど人に八つ当たりするのやめてもらえないっすか!?」 「うるせェと親に怒られるンじゃねぇの」 「うぐっ……。はぁ…、もう怒ってるこっちが疲れてくる…。……ん?」 もう燐音に対して怒ることを諦めたのだろう。それ以上は何も言わなくなったニキが何かに気が付いたような声を出す。どうせ食べているアイスが当たったとかだろうと燐音が眠ろうとした時。ギシリとベッドのスプリングが鳴って勢いよく肩を引き寄せられた。 「ちょっと!これ行かなきゃヤバいんじゃないっすか!?」 「は?何言って、……あ?」  ニキが燐音に見せたのは、先程彼の頭に激突した燐音のスマホ。そしてその画面には父親からの着信履歴のバナーと2件のメッセージ。 『一彩が事故にあったから、はやくびょういんにきなさい』  所々文字が変換できていない。それほどまでに余裕がない状況なのだと、この一文だけで感じ取れた。 (事故?なんで?あいつ、家に居たはずだろ…?)  バクバクとうるさく鳴り響く心臓の鼓動が鼓膜を揺らす。身体は地震でも起きたのかと思うほどにグラグラと揺れている感覚がする。 「燐音くん!?ボーッとしてる場合じゃないっすよ!早く病院に行かないと!」  メッセージのもう一つは一彩が運ばれた先の病院の住所。そこは地元の大きい病院で、過去にも彼が大怪我をして入院したことがある場所だった。───よりにもよってあの日、彼を赦さないと決めた場所だなんて。  シンと静まり返った病院内はホラー映画やドラマで見るような不気味さを醸し出していた。けれど、そんなことには目もくれず、燐音は平然を装った様子で指定された場所へと向かった。 「燐音…!どうしよう、一彩が…!」  待ち合い室に現れた燐音の存在に気付くなり泣きながら駆け寄る母親。その目は赤く泣き腫らしており一体いつから泣いていたのか分からない。その母親の後ろでは父親がソファに深く腰掛けており、その顔がどこか険しいことからただの事故ではないことだけは分かった。 「…父さん。一彩は……」  また泣き始めた母親の体を片手で支えながら燐音は深く項垂れた父親に問う。すると、父親は向かいの壁を指し示した。そこには自分が予想していたものよりも酷い有様が燐音の瞳に映し出された。 「……なんの冗談だよ」  ガラス一枚隔てた向こう側で眠る彼は、体のあちこちをチューブや細い管で機械に繋がれていて、機械から聞こえる無機質な音は小さな音だというのにとても耳障りだった。 「私のせいで、私のせいで一彩が…っ!」 「……落ち着けって、母さん。…何があったんだよ」  燐音の前で変わらず取り乱す母に、燐音は忘れかけていた呼吸を思い出したように再開させて母を落ち着かせる。恐らく彼女では説明が難しいと判断した燐音は、一彩が事故に遭ってしまった経緯を父親に訊ねた。 「どうやら母さんは一彩に買い物を頼んだらしいんだ。…それと、お前を家に連れ戻すようにとも。一彩はその行きに脇道運転した車に……」 「お、れ……?」  燐音達の家から近いスーパーは1つしかない。そこからニキの家はそう離れていないが彼の家はスーパーを越した先にある。つまり、一彩は買い物だけ済ませて大人しく家に帰っていれば事故に遭わなかったことになる。  要は彼が事故に遭ってしまった原因は自分にあったのだ。  父親曰く、一命は取り留めたものの、頭を強く打ったせいで意識不明の重体。いつ目を覚ますか分からない状態とのこと。加えて、左腕と右脚の骨折は全治3ヶ月。  幸か不幸か内蔵の方は無事だったらしいが、どうやらそれに安堵している場合でもないようだ。 「つまりは後遺症ってことかよ……」 「まだそうと決まったわけじゃない。…ただ、医者が言うには、事故の前に一彩は熱を出していたようだ。それに加えて事故の衝撃で頭を強く打っている。命に関わらないにしても脳になにか問題があってもおかしくない状態らしい」 (熱…?あいつ風邪なんかひいて、)  そこでふと思い出すのは数時間前のこと。ひとつだけ思い当たる節が燐音にはあった。  あの時、燐音が一彩を抱いた時、燐音は服こそ着ていたが彼は一糸纏わぬ姿で燐音に犯されていた。しかも、途中でやめてしまい自身はニキの家に行ってしまったので、その後彼がどうしたかまでは知らない。もし、その時既に風邪をひいており発熱していたとしたら。話の辻褄が全て合うだろう。 (……なんだ、全部俺のせいじゃねェか)  燐音は薄ら笑うと今度は唇を強く噛み締めた。  それから二週間が経とうとしていた頃。その時は何の前触れもなく訪れた。  一彩の容体が安定し、集中治療室から一般病室へ移されてから数日が経ったその日。燐音は、あの日から一彩に付きっきりで看病している母親のためにこの日も軽食を買って病院へと赴いていた。すると、一彩の病室の前がなにやら騒がしいことに気づく。看護師が忙しなく病室を出入りしていることから何かあったことに違いない。  燐音はあくまでも平静を装って病室へ入る。すると、少し離れたところで立ち尽くす母親の姿があったが、どこか心ここに在らずといった様子だった。 「母さん…?」 「……燐音……。一彩が、目を覚ましたの…」 「っ!そ、うか……」  その一言に、燐音は思わず持っていたレジ袋を落としそうになる。  一彩が昏睡状態の間、燐音は一度も彼のお見舞いに行くことはなかった。付き添う母のために病室に訪れることはあったが、彼個人が一彩のお見舞いに行くことはなかった。  そんな彼に対して、母はあの日から仕事を休んでまで毎日一彩に付き添い、身をやつしていた。きっと一彩が目を覚ましたら泣いて喜ぶことだろうと燐音は他人事のように思っていた。それなのに今の母はどこか浮かない表情をしている。まさか、と思った矢先に医者が2人の前に立つ。 「これから精密検査をしますが、怪我の方は3ヶ月程で完治するかと思います。頭部の傷も深くありませんでした。それと、記憶の方ですが……」 「記憶……?」  燐音の嫌な予感は当たり、一彩はどうやら事故の後遺症として記憶喪失になってしまったようだった。 「厳密に言えば彼の場合、記憶の混濁に近いかもしれせん。例えば、細かい事象は覚えていなくても自分が何者か、ここがどこなのか、周りの人が誰なのかなどは教えれば理解できるかと思います」 「それじゃあ、私が母親だと言えば分かってくれるということですか…?」 「あくまで私個人の見解です。ですが、記憶すべてを思い出すのは別の話です。健忘症は何かをきっかけに記憶を取り戻すこともあればずっと戻らないこともあります。彼自身もまだ現状を理解できていないと思いますので、今は焦らず彼と向き合ってあげてください」  取り敢えず、精密検査は明日行うので今は彼の傍にと医者や看護師達は部屋を後にした。  3人だけになった静かな病室で、母は横たわったまま呆然と天井を眺めている一彩の傍に寄り椅子に座ると、彼の痩せた手を優しく包み込んだ。 「さっきは急にごめんなさいね。…私はあなたの、一彩のお母さんよ。分かる…?」 「…お、かあさん……。ぼくの、おかあさん…」  一彩は掠れた声で確かめるように何度もお母さんと繰り返した。そのうちに自分のなかで納得できたのか少し表情が和らいだような気がした。 「そうよ、あなたのお母さん。それで、こっちがあなたのお兄ちゃんの燐音よ」  ドクンと心臓が高鳴って今まで聞こえなかった鼓動音や身体中を巡る血流の音までもが鼓膜に響いた。気付けば、レジ袋を握る手はじわりと汗をかいていて爪が手のひらに食い込んでいた。  そして、母親越しに燐音と一彩の視線がかち合った瞬間。一彩は顔を一気に青褪めさせて口を震わせた。次いで彼の口から零れた言葉に燐音は固まった。 「ご、ごめんなさい…っ、ごめんなさい…!ごめんなさい…!」  彼はただひたすらに両手で頭を抱えて燐音に謝り続けた。それが何に対する謝罪なのか燐音自身すら分からなかった。母親が必死に宥めて一彩を落ち着かせ、彼はどうにか謝ることを止めたが、依然として顔色は悪くガタガタと体を震わせたままだった。  きっと何か悪い夢でも見たのだろう。医者が言っていたように記憶が混濁しているから、と気を遣った言葉をかける母親を他所に燐音は複雑な気持ちで1人病院を出た。  帰宅して真っ先に自室へ向かうと、燐音は電気も付けずにベッドへと倒れ込む。そして、先程の彼の様子を思い出しては言いようもない感情に歯噛みした。 『ご、ごめんなさい…っ、ごめんなさい…!ごめんなさい…!』  見れば分かる。あれは燐音に対する拒絶反応だ。彼にとって今までの燐音との記憶は忘れてしまいたい程辛いものでしかなかったことだろう。そしてその原因が目の前にいたのだ。あの反応は正しいとしか言いようがない。  別に記憶が欠けた今の彼に受け入れてもらえるとは思っていなかったし、新たに兄弟としての関係をやり直すつもりもなかった。けれど、あそこまであからさまに拒否されたことで、少なからず傷ついた自分に苛つきを隠せなかった。それが何より燐音の怒りを煽った。 (丁度いい機会じゃねェか。これであいつはあの言葉を忘れて、俺も忘れりゃいい) 『すき、だから』 「……テメェが忘れてんじゃねェよ」  燐音はグッと手を握りしめると思い切り壁を叩いた。  誰もいない静かな部屋に鈍い音がひとつ響くが、それを叱る者も気にかける者も居なかった。

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