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11/28新刊サンプル

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「――――して、それは真か。晴明」  内裏にひそりと囁かれるような呼び掛けに、烏帽子を僅かに傾けて応えた者がいた。 「はい。念のため陰陽寮にいるそこそこの実力者たち数名にも占わせましたが、みな同じような結果になりました」  烏帽子の主は、安倍晴明。平安が京の都、そして日ノ本一と名高き陰陽師である。  普段は飄々とした態度の彼だが、いまは常と異なりその眼差しには真剣なる色が影に浮かぶ。それを受けてか、相対し報告を受け取る摂政の藤原道長の表情は硬い。当然と云える。晴明がハッキリと告げた内容は、決して良きものではなかった。 「都を襲う災い……委細は未だ分からぬか」  晴明が気紛れに占ったのは半月ほど前。その際に浮かび上がったのは、とある災いによって京が壊滅的な被害を受けるという予知。すぐさま陰陽寮総出となって災いの正体、対処法などを探れと命が下った。しかし、恐ろしきことに災いが近付いている、との声は増える一方でありながら、晴明の眸をもってしてもその輪郭すら捉えることが叶わないまま。 「おそらく、その災いは我らが用いる術への抵抗力が強いのでしょう。私の遠見すら拒絶するとなれば、此処へ至った後には――京の滅亡も、やむなしかと」  するり、と恐ろしきことを何ともない風に告げる晴明を、道長は音なき大きな溜め息で迎えた。 「……それで。よもや秘策でもあると?」  まさかそんな生産性の無い話題をしに来ただけではあるまい、と眼光鋭く睨む道長に晴明はいつも通りの笑みを浮かべる。 「昨日です。陰陽寮のひとりが夢見の呪を行い――代償に死にましたが――かの災いに関する、とある言の葉を紡ぐことに成功しました。よって、それを核に禍災退治と成してみせましょう」  その声色には自信に満ち満ちて、これに耳を傾けた者ならば誰もがその言葉に大きく頷いたところだろう。術者の口から意図を持って紡がれた音の葉は、それだけで霊(ちから)が宿る。晴明ほどの術者であれば、それは確定された未来と云っても過言ではない。その腕を認めている道長は、うむ、と一言を零すに留めた。彼がそう告げるのならば勝機があってこそなのだろう、と察するにあまりある。  ならば、と。晴明がおそらく望んでいるであろう次なる声を発する。 「では、何日いる?」  晴明は陰陽寮を預かる身であり、上司である道長の許可無く無闇に京を離れることはできない。無論、晴明の気まぐれな性格で時折はこっそり出かけていることなど重々承知しているが、建前というものは必要だ。そうでなければ、晴明にべったりと頼り切っている上級貴族共が口うるさいことこの上ない。  道長の言葉を待ち構えていたように、晴明は口角をつり上げて、まるで狐のような笑みを浮かべて告げた。 「七日……否、五日で対処致しましょう。その代わり、我が弟子――蘆屋道満も同行させますので、陰陽寮のことは頼みます」 「……うむ。頼んだぞ」  *** 「……聞いておりませぬが」  晴明の屋敷、その庭にて。落ち葉の清掃と洒落込んでいたのは、巨躯に袈裟という貴族の屋敷には似つかわしくない僧伽の姿。  彼の名は、蘆屋道満。  半年ほど前、遠く播磨の国より京へと参った法師陰陽師である。故郷で培った己が力を試さんと晴明へ術比べを挑み、大敗を喫した――と本人は思っている――ものの、何故か晴明の興味を惹いたらしく、いつの間にやら彼の弟子という立場に収まっていた。晴明には他に弟子は無く、道満の存在は異質といえる。  そんな道満だが、元より打倒晴明を掲げて京まで馳せ参じた者、彼がおとなしく晴明を師と仰ぎ教えを請うているはずもなく。 「いいじゃないか。蔵書、今月分に追加であと三つまで貸すので」 「ンンッ!? い、いえ……しかし」  晴明の気軽な提案に、道満は動揺を隠せない。  道満が甘んじてその立場に在る理由の一つとして、晴明の屋敷に出入り自由なことが上げられた。その中でもとくに晴明が持つ蔵書の数々は術者であれば垂涎の、常であれば決して見ることが叶わぬ稀書ばかり。神代から脈々と受け継がれてきたとある流派の呪いや、遙か外つ国での風土を記した覚書であったり、はたまた彼自身が筆を執った陰陽道のあれこれであったり。無論、道満が見てはいけないと取り決めがある物もあるにはあるが、それを除いても無尽とある蔵書の山に、道満は負けた悔しさと恥を飲み込み頭を下げたのは記憶に新しい方だった。  以降、月に数本を、晴明の確認と承諾があったものに限り借りられる権利を得た。写本すら許されるのだからそれ以上を望むなど烏滸がましいだろう、と道満は粛々と受け入れていたのだが、人の欲とは尽きぬもの。道満の学習速度と探究心は底なし沼の如く、交わされた約束の冊数では既に物足りぬまでになりつつあった。  そんな中、晴明が告げた此度の提案はまさに渡りに船ではあった。  しかし。 「我が師ながら、此度は随分と弱気なようで。貴方様がそのような態度をなさる程の事態なぞ、拙僧ではお役にたてるかどうか……」  くすくす、と笑う顔の裏側で道満は晴明の真意を探るように黒目を細めた。  このような申し出は初めてのことだった。師として時折、貴族からくる依頼の一部を代わりに引き受けることはある。手が離せない宮中の行事と重なった祓などを代行したり、検非違使では太刀打ちできないと知らせがあった怪異を源氏郎党と共に滅した経験もある。  だが、今回の話はどこか毛色が違う、と道満の直感が嫌な気配を感じ取っていた。  そもそも、あの晴明の遠見をも拒絶するような力あるモノとは何か。道満は今までその禍災なるモノには関わってこなかったため、持ち得る情報は民草がひそひそと口にした朧げなことしか知らない。数日前に寝起きの晴明が「困りましたねェ」と呟いていたのを聞いたくらいだ。もうその時点で嫌な予感しかない。  晴明の甘言に容易に頷いてはならない――その直感が、道満を緩やかに後退させる。  それを見た晴明は。 「……では、術比べと参りましょう」  ニタリ、と口角をつり上げて艶がかかった声を上げた。無視できない単語に、道満の動きがぴたりと止まる。 「道満が勝てば先程の権利を。ただ私ひとりで退治に行きますので、留守を任せます。そして私が勝てば禍災退治に同行してもらいます。ああ、もちろん帰還のあかつきには蔵書の貸し出しも許可しますよ」  さてどうしますか、と。  晴明は心底楽しそうな顔を隠しもせず告げた。 「……グ、ぅンンンンンンン――――ッ!」  思わず唸る。道満にとって、晴明のその提案はあまりにも良すぎた。どのみち蔵書は追加で借り受けることが出来る。それが晴明に同行するか否か、その部分以外は変わらない。  加えて、道満の脳裏にはとある日の悲劇がありありと蘇っていた。それは晴明が道長の命により、源氏郎党と共に京を離れていた数日のこと。京の守護、及び陰陽寮の仕事その一切を任された道満は、始めこそ己が力を見せつける良い機会だと張り切ったものの、その熱意を裏切るように散々な目にあったのだ。陰陽寮に籍を置くような官人陰陽師は当然ながらみな貴族であり、彼ら目から見れば道満のような法師陰陽師とは陰陽師の真似事をしている卑しい立場。加えて、そんな存在でありながら道満は晴明に食らい付くことが出来るほどの実力者であったのが彼らに陰湿な行動へと走らせてしまった。平たく云うと、業務に支障が出るくらいには悪質な嫌がらせが多発し、それによって晴明に頼まれていた仕事を完遂することが出来なくなってしまったのだ。それは端から見れば標準を超えており、他の術者であれば上出来だと評価に値する程度には仕上がっていたが、道満にとっては不満しか残らない無念の結果であり。晴明からの評価も耳に入らないほど、いたく屈辱的な結果となってしまった。  それが繰り返される可能性を幻視し、道満の心は大いに揺れた。どちらにせよ碌な目にあわないならば、いっそ晴明に同行した方が利になるのではないか、ともうひとりの己が囁く。晴明しかしらぬ術を目にする機会もあるやも、と。しかし今回の禍災退治は素直に受け入れることを拒む何かがある、といまだ鳴り止まない直感による警鐘が道満を思いとどまらせていた。なによりも、このやり取りすら晴明の思惑通りに進んでいるようで、苛立ちが募りつつある。  こうなれば、と道満は決意を表明した。 「ンンン、ンンンン……ええい、いいでしょう! 晴明殿からの申し出なぞまたとない機会! 術比べ――お引き受けいたしまする」  すべては勝敗を以て決するべし、と。  道満は腹立たしさを隠しもしないまま、懐より呪符を取り出しながら晴明の案に乗った。 「そう云うと思ってましたよ」  慣れた足取りで二人は晴明邸の中庭、その端にそれぞれ向かう。  晴明と道満の術比べは何もこれが初の試みではない。むしろ五日に一度程度の頻度で行われる、いまや日常の一つと言って良い。その大半は弟子たる道満の方から、師弟関係の解消を名目に挑んでいた。方法は多種多様で、星読みから式神を使用した戦闘、時には道長より齎された依頼すらも勝負の切っ掛けになった。そしてそのすべてが、今日に至るまで晴明の勝利となっている。 「――まず、勝利条件を確認したいのですが」  相対するように向かい合うと、道満が慎重な素振りで問いかけた。  此度の術比べは道満から持ちかけたものではない。二人の間では暗黙の了解として、細かな条件付けを行えるのは挑みに来た方となっていた。おそらく構図としては道満が晴明へと挑戦するかたちになっているが、今回の発案者は晴明からのため、権利は晴明の方にあると道満は思い、問うたのだった。  その問いに晴明はふむ、と軽く考え込むような仕草を見せる。程なくして、彼の口が緩やかに開かれた。 「……では、こうしましょう。〝先に意識を失った方が負け〟である、と。手段は術、式神、そして己が力。何を用いても良い」 「――――!? ほ、ほぅ……珍しき条件ですな」  晴明のその言葉に、道満は天啓が降りてきたような衝撃が走った。  今月分では最後となる貸し出しの蔵書、外つ国の民間療法などが数多く載っていたその冊子の中にあった、とある呪法が蘇る。それはたとえどんな相手であろうとも必ずその意識を奪うことができる術であった。複雑なる言の葉を用いた呪文を、それも三度繰り返し対象へ唱えなければならないという難易度の高さに見合い、その効力は絶対的なものであった。少し前、晴明の名代として赴いた不眠に悩まされている貴族へ物は試しとその呪いをかけてみたところ、まるで見えない何者かに殴られたかの如く卒倒し、再び目を覚ますまで二日は経っていた。その後、怪異の類いに遭遇した際にも隙を見て試したが、変わらぬ効力をみせた。手間はかかるものの、確実性は完璧である。  記憶を呼び覚ますと同時に、道満はこの条件をつけた晴明の意図を悟る。表向きは道満が蔵書をしっかりと読み込んでいるか師らしく採点したい、といったところ。しかし、その裏までも道満は読み取っていた。おそらく道満がその本を持ち出したことでその呪法の存在を思いだし、あわよくば己も使用してみたいのだろう。普段晴明が相手とする上流貴族たちにはこのような術を試すことは難しく、さらに怪異の対処にも晴明自らが赴くことは殆ど無い。さては試す機会を虎視眈々と待っていたのでは、とまで邪推してしまうのは、晴明が年齢不詳とはいえ立派な成人の容姿に似合わず、まるで悪戯心満載の童のような行動を時折するからだ。  しかし、もしそうならば今回は道満の方に分がある。初めて術式を扱う者と、一度試したことがある者。どちらが有利かと問われれば皆が後者を差し示すだろう。どうすれば呪文を素早く唱えられるか、早くも道満の脳裏には幾つもの筋立てが浮かび上がっていた。 「ええ、ええ、構いませんとも――――では」  はやる気持ちを押しとどめ、道満は晴明に合図を送る。余計なことを考える余裕は捨て、ただ目前に掲げられた夢の終着を掴み取るために全霊を賭けた。いくら有利な立場とはいえ、相手はあの最高峰の術者たる晴明である。一瞬の慢心から足をすくわれた回数など既に数えることも辞めてしまうほどにあり、次こそはと固めた決意が崩れては積み上げられ、いまは遠き勝利の瞬間を待ち望んでいる。この好機を逃すわけにはいかないのだ。 「楽しみです。此度はどのような勢威工夫を見せてくれるのでしょうか」  霊符を構え口元を隠しながら、晴明が瞳だけで笑う。余裕の表れであるそれを今日こそ切り伏せてみせるべく、道満は反対に真剣な眼差しで数枚の呪符を懐から構えた。  合図は不要。二人の脳裏にはまったく同じ光景が見えていた。陰陽寮の一角にある、漏刻博士が厳重に管理する巨大な水槽。そこへ滴り落ちる雫がひとつ、溜められた水面を跳ねるその瞬間。  ――――ぴしゃん、と。  幻聴が耳の奥で響いた、その刹那。 「――――参るっ!」  先に動いたのは道満の方だった。 「柳と揺れるは髪、長く棚引き流れゆき、是なるは風の随(まにま)に――到達必至!」  風の性質を取り入れた強化の術を両脚に施すと同時に、一直線に前方へと疾走する。風は何処からともなく来ては、何処かへと去って行く。それを古くは〝長きモノ〟であると捉えられていた。そして完全に閉ざされた空間でなければ何処へでも流れていくことを感じられることから〝到達〟の性質も持ち合わせている。その風の恩恵を授かるために、類似した長きモノを触媒に術を行使するという手法。道満は幾ばくかの呪が蓄えられた長き髪を扱い、風の敏捷さと到達の概念を持って瞬きの間に晴明へと接敵する。いくら貴族の庭園とはいえ道満の長い脚であれば、ましてや強化が掛かっているとなれば距離を詰めるのに数歩と掛からない。  微動だにしない晴明を前にして、道満は怯むことなくそのまま――呪の緑が艶めく五本の指を突き出した。  陰陽五行思想に基づくと、風は木気であり緑萌ゆる木々と同じ紅と呪を刻んだ長き爪は〝到達〟の性質をそのままに、一閃の如き刹那を以て晴明の涼やかな目元を抉らんと牙を向けた。  それを。 「おまえの術は相変わらず、見事なほど真っ直ぐだ」  ――――バチンッ!  ほんの僅かに目を細めた晴明は、それを真っ正面から受け止め、突風の如き勢いすらすべてを相殺した。 「チィッ――!」  道満が伸ばした爪の先には、いつの間にやら青みを帯びた鈍く光る檜扇のような形状のモノが、晴明の顔を隠すように広げられていた。  それが何か、一目では判断しかねたが光沢のある質感と呪を受け止めた結果から導き出された答えに、道満は驚愕に声を荒げる。 「金気――青銅の扇、ですと!?」 「ははは。さすがに外側の部分だけですよ。全部が金物とか重すぎて持てませんし」  それは陰陽五行思想に於いて相剋(そうこく)――要素を弱めてしまう――の関係である〝金剋木(きんこくもく)〟を用いたもの。大地に根を下ろす木は、斧や鎌などの金物によって容易く切り落とされる。木気の術であるのなら、それを破るには金気が最適である。  防がれることは予想は出来ていたものの、この手段は道満の想像をはるかに上回った。晴明はあまり金物を好んでいないのを知っていたため、まさかそのようなモノを所持していたこと自体に驚きを隠せない。 「ならばッ」  動揺と痛恨に歯を食いしばる道満だったが、それも一瞬の間。すかさず袖の裡に隠してあった一つ目を描く複数枚の呪符が、怒濤の勢いで両者の間に吹き上げる。  それは他者の目から見れば距離を取るための一手と捉えられただろうが、無論、道満がその程度の子供だましに収めるはずもなく。  ――――ギンッ、と。  無数の一つ目、それらすべてが一同に瞼を開き、黒々とした眼(まなこ)で晴明を視た。  そして。 「闇(あん)たりを、即目津即(そくめつそく)、比良(びら)りや開(びら)り、暫斬鬼銘(ざんざんきめい)――」  高速詠唱の如く、滑らかに素早く霊の宿る言の葉を唱える。人の意識を即座に闇へと導くこの呪いは、文字の無い異邦の口伝によるもの。先日読んだ蔵書では、筆者が術への理解を深めるためか、口伝に仮初めの当て字が記されており、道満はそれをそのまま用いて歌うように術を紡ぐ。民間に古く伝わる術は主に音が肝要であるため、決して言い間違えず唱えられれば術式として十分に成立するのだ。 「――――使間識尽(しかんしきじん)、吽(うん)、残惰(ざんだ)り範(はん)!」  まずは一巡。それを一息に唱えきった道満は、安堵する間もなく全身を使って飛び退いた。 「……さすがは我が師。こうも容易く防がれるとなっては、この道満――不肖の弟子として、我が身の至らなさに苛まれておりまする」 「ははは……え、おまえそれ本気で言ってますね?」  ちょっとどうかと思う、等と宣う晴明を無視して、道満は次なる手を思案する。あの呪文を、もう二巡すれば道満の勝利が確定するのだ。しかしいま目の前にいる人物が、それを黙って見ているだけのはずもなく。 「まァいいでしょう。次は此方から行きますので」  そう、晴明が軽やかに告げるや否や。 「オン・マリシエイ・ソワカ」 「――――ッ!?」  玲瓏と響いた、聞き馴染みのある真言に息を呑む。咄嗟に伸ばした手は何も掴めぬまま、直後として差し込んだた日の眩さから咄嗟に瞳を閉ざす。瞬きひとつの後に開いた視界から、先程まで正面に居たはずの晴明の姿が霞と消えていた。 「隠形の術……おのれ、いつの間にやら袖の中で印を組みおったか」  先ほど晴明が唱えた真言は、陽炎の化身たる摩利支天のもの。常に日光の前を疾走するとされ、実体を持たぬために何者にも捉えられず、傷つけられない。かの女神の力を借り、その身を陽炎へと変化させた――否、さすがにそこまでの大がかりな術式であれば道満とてすぐに気が付く。精々が日差しを用いて道満の視界から晴明の存在が映らぬよう眩ませている、幻術の類いだろう。  だが、単純故に厄介なことになった。道満は歯痒い思いを隠しきれずに低く唸る。  あの術式は、一度使ったことがあるとはいえ熟練度としてはまだまだ未熟。そんな不確かな術を、対象の姿を視認しないまま放つことは大層危険な行為であった。式神やら索敵の術などで捕捉していても、確実なのはやはり術者の眼でしっかりと捉えること。対象を視る、という行為そのものも呪術のひとつ。慣れ親しみ諳んじられるような術ならばともかく、不慣れな術式ではすべきではない。暴発して無辜の民に厄を振りかけかねない。 「隙あり」 「――――なんとォ!?」  そうこう考えているうちに、虚空から突如として湧き出た覚えのある腕と声に悲鳴じみた叫びが上がった。  頬を掠めたのは冷え冷えとした鋼鉄の感触。おそらく先ほど晴明が用いた青銅の扇だろう。殺気は込められていなかったが、当たった頬からはたらり、と赤い雫が滴る。容赦あってのことだろう、と道満は唇を噛みしめる。狙われたのが首であったのなら、今頃道満は胴体と首が分かたれていたことは想像に難くない。  そして。 「〝あんたりを〟――――」 「……ッ! 急急如律令!」  それは、例の呪文の走り。そのまま詠唱させるわけにはいかない、と道満は咄嗟に袖口に隠してあった呪符に魔力と言霊を注ぎ、式神を顕現させた。  道満の視界は封じられていても、術式に依らない肉体依存の視界を持つ式神であれば彼の姿を捉えられるかもしれない、という願掛けのようなものだったが、結果的には上手くいったらしい。具現化した巨大な蛙の式神の猛進による突撃は、晴明に当たることはなかったが、彼の位置を後方へと追いやることには成功したようで、真横にまで迫っていた気配が薄らいだことに密かに息を零した。  しかし。 「…………っ」  見上げた空には、高く高く昇った太陽が、遍く地を照らさんと光を放っている。熱を帯びた光が大地に注ぎ、地表と空の境目がゆらゆらと揺らぐ陽炎が見えた。これがある限り、道満の視界は不完全なままだ。 「ならば――――」  見えぬのならば視る必要も無い、と道満は躊躇無く己が双眸を閉ざす。代わりに蛙の式神を側に侍らせ、また道満の周囲を取り囲むように一つ目の形代を張り巡らせた。  晴明のことだ、自身の姿を眩ませたまま勝敗を決めるような姑息さは持ち合わせていないだろう、という希望が半分。もう半分は、次なる妙案を急速に練り上げるために集中するためだ。 「木火土金水(きひづかみ)の神霊(かむみたま)、巌(いづ)の御霊(みたま)を幸(さきわ)え給え――」  ――――ダンッ!  誘いの言の葉を囁きながら、揺るがすような力強さで道満は地を強かに踏みしめた。場を清め、喚び招くための禹歩。  場を整えたのなら、次は招来を請うために捧げるべき贄がいる。普段であれば予めこさえた形代を用いるが、いまはそれよりもずっと良きモノがあった。  ぐい、と頬を拭った指先には鮮血と笹紅が彩る。血は不浄穢れではあるが、術者の血であれば宿る高密度の魔力に惹かれる人ならざるモノは多い。宮中の格式張った儀式ならいざ知らず、いま道満が行う召喚は簡易で突飛、そして迅速が求められる。ならば、と張り上げた声は蒼天を貫いた。 「水生木(すいしょうもく)大吉、祈願降雨」  唱えるは五行思想を用いた祈祷法の祝詞。祭壇やら道具やら必要なものを省略し、持ち得た魔力その一点のみですべてを補ってなお、構成する術式は美しき解を示す。 「――――謹誓(きんぜい)、黒龍神。急急如律令!」  陰陽道を用いた祭事のひとつに、祈雨の祭というものがある。それは四方を司る霊獣――四神のように、五行に相当する五柱の龍神へと降雨を祈願するというもの。黒龍神はその中の一柱で、水気に対応するモノ。  招き願い、求めたのはただひとつ。  ――――ぴしゃん、と。  伸ばした指先に天の恵みたる雨が降り注ぐ。導き出された結果に追従するように、中天を照らす太陽を覆い隠さんとすべく黒き龍を模した雲が集まってきた。  それらを確認するよりも早く、再び道満は駆け出す。  目指す場所はまだ見えず。陰りをみせたとはいえ、未だ空に陽は差し続けている。すべてを覆うのを待っていられるほど悠長に事を構えているということは、姿を消した晴明に勝利を譲るのも同意。そんな愚行を犯すほど落ちぶれてなどおらず、認められるわけもない。  そのため道満はまず、自らの周囲に張り巡らせたままの式神たちすべての目と視界を同期させた。負荷は凄まじいが、先ほど龍神を招いた術式の効果で多少は祝福を受けている。一時的なものだが、利用しない手はない。  無数の目を使い、視るのはそぼ降る雨の雫で。 「――ッ、見つけたぞ……晴明ィイ!」  突如、道満は自らの視野では虚空でしかない空間へ向けて爪を振るった。虚無を掴むと思われた先で、確かなる感覚――おそらく袖の一部だろう――で絹を引っ掻いた。  すると、先程までは何も無かったその場所に、唐突に晴明の姿が現れた。  ――――否。現れたのではなく、最初からその地点に晴明は居たのだが、目を眩まされた道満ではいままで認識できていなかったのだ。 「いやはや、さすがですね。式神越しに探すと思わせて、実は……雨粒を通じて私を視た、とは」 「二度目を許すような人ではないでしょう、貴方は」  さらさら、と音少なげに空から水が滴り落ちる。  道満が龍神に願ったのは雨乞い。それは晴明が用いた陽炎による幻術を払うことが大きな目的だった。しかし降雨は成功しても、天の輝きすべてを覆うには時間が掛かる。  そこで、一刻も早く晴明の姿を捉えるべく道満は降り注ぐ水滴を、張り巡らせた式神を用いてつぶさに観測し、水鏡の要領で周囲を探ったのだ。式神の視界を通じて探すことは一度成功しているため、同じことをしたところですでに対策はとられているだろう、と咄嗟の判断であった。 「――――とはいえ」  結果的に功を成したが、依然として状況は変わっていない。視界は戻れども晴明に手傷は無く、ただただ道満の持つ手立てが確実にすり減っていた。闇雲に式神や呪符を使ったわけではないが、これまででかなりの量を消費しすぎている。あまり猶予は残っていない。  であれば、と。道満はまたもや仕掛けに出た。 「真に陽炎であれば掴めぬが……!」  いま晴明は間違いなくそこに存在し、地に足をつけ、道満へと向けて薄ら笑いを浮かべている。余裕の現れの極みたるその顔へ泥をつけるべく、捉えた姿へ向けて指を振るった。その指先には、白く長い糸のようなものが巻き付いている。 「絹糸、天蚕糸(てぐす)、蜘蛛(ささがに)の網(い)と――」  引っ掻いた際に掠め取った、袖口の絹の一部。それを元に道満の髪、そして笹紅の色彩を組み合わせ、細長い魔糸と成す。淡い黄緑色の糸は呪を帯びてくるりくるり、と輪を描きながら地を這うように晴明へと迫る。糸は枝分かれ、色も相俟って山裾に生い茂る蔦や地衣類の如く。まるで蜘蛛が巣を作り上げていくのを早巻きで眺めているような、それとも、押し寄せる自然の猛威に人の世が呑まれていく悠久を刹那で表現するような。 「おっと――――ん?」  足元まで迫って来たのを見て晴明が足を動かそうとし、不意に疑念の声が上がったのが聞こえた。それこそ道満の狙い通りであり、顔が愉悦に歪むのを止められぬまま、術の名を告げた。 「松羅(しょうら)の契りが如く綢繆せしめよ〝狐元結(きつねのもとゆい)〟!」 「……!」  深き山の大樹に絡みつく蔦の異名のひとつが、狐元結。その名を冠した術は、晴明の足から身体全体へ深く絡み、行動を阻害させる。誰が言い出したかは知らないが、晴明は狐の仔だと噂されるほど、狐に所縁ある者。名に宿る力を使ってどれ程の効果があるかは博打であったが、即座に振りほどかない様子を見るに、策は功を奏したらしい。 「――――好機!」  糸を更に深く強く晴明へと絡めながら、道満は俊敏な身のこなしで近接する。彼の手が止まるなど、二度訪れることの無い好機に相違なく。ここで引く道満ではなく。  近付きながら視線がかち合う。その時、晴明の口から紡がれる言の葉に気付いた。 「〝あんたりを〟」 「――ッ!」  まずい、と思うよりも早く指が印を結ぶ。晴明を拘束していた糸が弾かれたように活性化し、口元に幾重にも巻き付き声を遮断させた。間一髪だった。 「いけませぬ、晴明殿。しばしお静かに」  幼子を宥めるかのような口ぶりで、慈悲にも似た微笑みを浮かべた道満は瞬きすらせず真っ直ぐに晴明へと視線を向け、小さく開けた口から紡ぐのは二巡目の呪文。 「闇たりを、即目津即、比良りや開り、暫斬鬼銘――――」  何節にも及ぶ詠唱を持ち前の肺活量に物を言わせ、およそ一息の間に唱えきった。  その姿は、端から見る者が居たのであれば感嘆しただろう。呪の言霊でなければ、まるで御仏の如し姿であった、と。  しかし。 「ン――――……」  晴明は未だ一度も唱えきっておらず、片や道満はあと一巡で術が完成し勝利が確定する。  その事実に、道満は。 「ンンッフフフフ……はっははははは――――!!」  我慢できず、心の底から嘲笑の声が溢れ出た。 「おやおやァ? 晴明殿ともあろう御方が、なにゆえ拙僧如きの拘束術を破らず、そのまま立ち尽くされておられるのか? はてさて、この術式はそれ程までに難解でございましたかねェ?」  されるがまま、返呪を編む気配も無く受けるだけの晴明に、常ならば不気味さを覚えていただろう。  しかし、術が上手く決まった高揚感と勝利への確信が、道満の判断を誤らせた。 「良いのですかな、このままで。ええ、ええ、では――――晴明殿、お眠りを」  くるり、と指先に巻き付いた魔糸を巻き上げると、晴明に絡んだ蔦とも糸とも見紛う術の拘束が音をたてながら更に強く縛り上げる。ちょうど雨も上がり、雲の裂け目から陽が差してきた。晴明の背後に、まるで後光のような輝きが、彼の清廉さを後押ししているようで忌々しい。それを容赦なく踏み潰すべく、道満は優雅に歩み寄りながら、晴明へと向けた視線はそのままに、三度目の呪文を紡ぎ出した。 「闇たりを、そく――――」 「……道満」  ぱし、と。扇を閉じるような音と共に、はっきりと晴明の声が投げかけられた。不思議なことであった。道満は一度も目を逸らさず晴明を見つめ、呪の言霊を囁いている。晴明はその間、身じろぎすらしないままで。口も封じたままであるというのに、何処からこの声が出ているのか。  その疑問がしっかりと道満の脳内に届くよりも先に。 「〝あんたりを〟」  その一言が耳を撫で上げた、その瞬間。  ――――ぶつんっ、と。  道満の意識は深き奈落のような闇へと飲み込まれた。  ***

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